時々私に寄せられる意見の中に「オンライン診療を広めるために、ネットができない高齢者でも受けられるようにしてもらいたい」というものがあります。
気持ちはわからないわけでもありません。勿論、システムをわかりやすく伝えるという工夫も重要です。
しかしながら、そもそもネットをしない人へオンライン診療を伝えるというのは無理がある話です。
それはあたかもピアノを弾いたことがない人にピアノを弾かせるように工夫しなさいと言っているようなものです。
ピアノを弾いたことのない人に対してできることは、ピアノの魅力をわかりやすく伝えることのみで、
相手にピアノを無理に引かせることなどできるはずもなく、やったとしてもその人が楽しんでピアノを弾ける可能性は低く、
さらに言えば、そんな人は指導者がずっといなければ自分でピアノを弾けるようになる日もきっと来ないのではないでしょうか。
オンライン診療についてもこれと同じことが言えると思います。
「高齢者にはネットが難しいから」という言われ方をすることがあります。
しかしネットの仕組み自体は難しいかもしれませんが、ネットを使うこと自体は極めて簡単なことです。
これを「難しい」というのはネットを使った事がない人にしか言うことができません。
なぜならばネットを使った人は皆、ネットを使うことが簡単だとわかるからです。
つまりネットが難しいからオンライン診療ができないのではなく、新しいことに挑戦したくないからオンライン診療ができないのです。
仮に私がそのネットが難しいという人のお宅へお邪魔し、手取り足取りスマホの使い方から実際のオンライン診療のやり方まで手取り足取り教えたとしましょう。
その人は私がいないとスマホを使えないので、私がいなければ何もできないという構造に陥ってしまいます。
しかも私の推奨する主体的医療は医師から言われたことを鵜呑みにせず、自分の頭で納得できるところまで考えることを勧めますが、
考える際にも情報が必要です。その情報を得るのにスマホは多大な効果をもたらしますが、
そのスマホが使えないとなれば、その人は今まで持っている知識の中で考えることになりますが、それでは振り出しに戻っただけで結局医師の言いなりになるのが関の山です。
要するに一歩変わる勇気が持てない人は残念ながら私がどれだけ努力をしようとオンライン診療の恩恵は受けられないのです。
湿潤療法の開祖、夏井睦先生によれば、広範囲のやけどを負った時に、
何も考えずに一般の病院を救急受診した人は標準治療の名の下に、一見信じ難い話ですが、
拷問的な治療を受け続けた後に植皮治療を受けるよう半ば脅迫的に勧められ、その結果一生消えることのない傷がヤケド部と採皮部の両方に残るという結末に十中八九至りますが、
おかしいことに気付いてネットを調べた人は湿潤療法の存在に気付き、標準治療を避けて湿潤療法によってキレイにヤケドを治すことができるという、
それほど雲泥の差をネットを使うか使えないかの差がもたらすことになります。
もしネットが難しいのだというのなら、まずは身近な人に尋ねればいいはずです。
それすらも難しいからできないというのなら、それは本当に難しいからなのでしょうか。
正体はやったことのないことに対する漠然とした不安なのではないでしょうか。
それでも自分で動くのをやりたくないという人は、やけどの例で象徴されるネットを調べないことによって生じるデメリットを甘んじて受けるより他にないのではないでしょうか。
それに私の努力にも限界があります。
私には自分にゆとりがあってこそ良い医療が提供できるという考えがあります。
自分にゆとりがなく、疲労も蓄積しているような状態で相手にやさしくなれるはずもないと考えています。
だから私ばかりが無理に手を延ばして患者さんにオンライン診療を伝えようと奮闘するのは得策ではないのです。
私も無理のない範囲で手を延ばし、患者さんもできる範囲で手を延ばして私と手をつなぐ、
それこそが健全なオンライン診療を運営するために大切な原則ではないかと私は考える次第です。
たがしゅう